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宮崎簡易裁判所 昭和39年(ろ)34号 判決 1964年5月13日

被告人 野中清美

昭五・一・二三生 会社員

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は「被告人は昭和三八年五月中旬頃の夜、宮崎市黒迫町二丁目四番地所在の株式会社橘百貨店社宅六畳間において、男女性交の情景を露骨に撮影した猥せつ映画フイルム『夜行列車』『枯すすき』の二巻を、八ミリ映写機を使用して白壁に映写し、これを二宮正雄外約五名の不特定多数の客の観覧に供し、以て猥せつ図画を公然陳列したものである。」というのである。

しかし、当裁判所は以下の理由により被告人の本件所為は末だ刑法第一七五条にいう「公然陳列」したものということができないと考える。

黒岡通昭の司法巡査に対する供述調書、二宮正雄、甲斐弘一の司法警察員に対する各供述調書の一部、被告人の検察官及び司法警察員(第三回)に対する各供述調書の一部並びに当公廷における供述の一部によると、<1>被告人が本件映画フイルムを映写したのは被告人肩書住居地自宅内の六畳の間であるが、右場所が専ら被告人とその家族の私的生活に供せられるところであり、みだりに外部のものが入り込み、または窺うことのできない場所であることはいうまでもなく、また、<2>げんに被告人が本件映写に及んださいも、夜間約一時間にわたつてひそかに五名のものに限つてこれを観覧させたものにほかならないこと、<3>そして、右五名とは、被告人の勤務先である株式会社橘百貨店外渉課従業員であり、従つて、かねてからの知己である二宮正雄、同じく黒岡通昭、同じく甲斐弘一、同百貨店外渉課の取引先(仕入先問屋)の従業員前田某、他一名であること、<4>被告人は本件映写にさいし右五名のものから何らの対価を得ず、また得る気持ちもなかつたこと、いゝかえれば、対価さえ得れば何人にでも見せるといつた性質の映写でなかつたこと、等の事実を認めることができる。もつとも、観覧者の員数については、前記二宮、甲斐、被告人(二通とも)の各供述調書の一部によると、あるいは二宮、黒岡、甲斐、前田の四名と述べ、あるいは約六名と述べている部分があるけれども、右は前記黒岡の供述調書(添付図面も参照)、被告人の当公廷における供述と対比検討すると、これをにわかに措信することができない。

ところで、一般に「公然陳列」とは不特定または多数の者が観覧することのできる状態におくこと(現実に不特定または多数の者に観覧させた場合を含むことはいうまでもない。)をいうものと解すべきであるが、これを本件についてみるに、前段認定事実によると、被告人の映写は外部からしや断された被告人方自宅の一室で、夜間約一時間ひそかに、特定の知人三名と、これらの者と特別の関係あるもの二名の限られた少数の者に対してなされたものであるから、現実に不特定または多数の者に観覧させたものでもなく、また観覧させうる状態においたものでもないこと明らかである。この点被告人は当公廷において、前田某、他一名の者については「どこから来た人か知らない。」また「当時氏名も知らなかつた。」旨述べているけれども、右氏名等を知らなかつたからといつて直ちにこれを「不特定」の者と解することができないのみならず、冒頭掲記の各証拠によると、右二名の者は前記のとおり二宮ら三名と特別の関係があつたもので、被告人としてもこのことを知つていたものであり、それ故にこそ同席させたものと窺い知ることができるから、右摘示の点は前記判断に何らの消長をきたすものではないと考える。また、五名の員数が「多数」でないと解した点につきふえんするに、「およそ多数とは二人以上をいう。」と定義づけられないでもないが、これはすでに、規範概念を即物的に機械的に解する誤りをおかしているのみでなく、かりに右定義を採用するとしても、それは、二人以上の者に観覧させ、またはさせうる状態におけば「公然」性を充足する場合があるという趣旨(充分条件)であつて、逆に二人以上なら必らず公然性があるとの趣旨に解すべきものでないと考える。いずれにしても本件の場合、前記認定の諸般の事情を綜合すると、五名をもつて多数と解するわけにはいかない。

以上のとおりであるから、被告人に対する本件公訴事実は爾余の判断をするまでもなく、その犯罪の証明がないといわなければならない。

よつて、刑事訴訟法第三三六条により主文のとおり判決する。

(裁判官 畑郁夫)

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